Gontaの模型趣味 1/35スケール AFVモデル
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StagHound Mk-T

第二次世界大戦の序盤、北アフリカ戦線でドイツ国防軍と戦ったイギリス軍は、火砲を搭載した装輪式装甲車の有用性を認識し、アメリカ軍もその認識を同じくした為、偵察用の火砲搭載装輪装甲車がアメリカで開発される事になった。
フォードが6輪式のT17、GMC(GMシボレー)が4輪式のT17E1を開発し、評価試験の結果T17E1の方が良いとされ、アメリカ軍ではT17E1にM6の形式名が与えられたものの、問題ありとして結局実戦使用されず、全てイギリス軍に供与される事となった。
(アメリカ軍ではその後、M8装甲車を採用)。

イギリス軍に引き渡されたT17E1は、「スタッグハウンド」と名付けられ、同軍で終戦まで活躍することとなった。
T17E1は1942年から43年末にかけ、約2,800両が生産された。

最初に開発されたT17E1 = スタッグハウンドMk.Iは、37mm砲と7.62mm機銃を同軸配置した旋回式密閉砲塔を持っていた。

              
陸上自衛隊61式戦車

61式戦車(ろくいちしきせんしゃ)は、日本の陸上自衛隊が運用していた戦後第1世代戦車に分類される戦後初の国産戦車である。

1955年(昭和30年)に開発が開始され、1961年(昭和36年)4月に制式採用された。
採用された西暦の下二桁の年をとり、61式戦車と命名された。

主砲に「61式52口径90mmライフル砲」として制式化された砲を装備し、鉄道輸送を考慮して当時の国鉄貨車に搭載できるよう車体が小型化されている。

1974年(昭和49年)に74式戦車が採用されるまで560輌が生産され、2000年(平成12年)に全車が退役した。

              
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HOTCHKISS戦車画像03 HOTCHKISS戦車

オチキス H35は小型の車両で、全長4.22m、全幅1.95、全高2.15m、重量は11.37トンである。
車体は6つの鋳造部分(エンジンデッキ、戦闘室、車体前部、車体後部、車体下部の左右)から成り、それぞれをボルト結合していた。
鋳造装甲は傾斜面が多くショットトラップを少なくし、避弾経始の点でメリットがあった。

とはいえ、それでも歩兵戦車としての装甲防御力は充分とは言えなかった。
車体の最大装甲厚は要求された仕様の40mmではなく34mmしかなく、しかも多数の下請工場を使ったことで、後々まで品質の問題がつきまとった。
具体的には、当初は装甲板が柔らかすぎ、次に硬度を上げると今度は脆く、しかもあちこちに“す”が入り脆弱な箇所が出来てしまった。

乗員は2名で、操縦手は車体前部、鋳造の2枚ハッチの後ろに位置した。
オチキスH35の操縦は非常に面倒な仕事だった。
オチキスには、競作されたルノーR35が持っていたクリーブランド式ディファレンシャルはなく、操行時に予想外の挙動を起こした。
ブレーキはその是正にあまり役立たず、しかも傾斜地を走り降りる際、非常に効きが弱かった。
さらにギアボックスも厄介で5速に入れるのが難しく、カタログ上の最高速度である28km/hを出せることはめったになかった。

              
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マークW戦車03 マーク W 戦車

第一次世界大戦最中の西部戦線における、塹壕と機関銃の圧倒的優位を打破するために誕生した世界初の近代的な実用戦車である。

ウィリアム・トリットン、ウォルター・ゴードン・ウィルソンが設計を担当し、製造はウィリアム・フォスター社が行った。その形状から菱形戦車とも呼ばれる。

イギリス海軍の主導によりリトル・ウィリーの試作を経て、1916年にビッグ・ウィリーが公開試験に成功。量産化が決定し、「Mark I」との正式名称が与えられた。
1916年9月15日のソンムの戦いにおける第3次攻勢にて初めて戦闘に投入されたが、機械的信頼性の低さや当初から乗員の居住性・操縦性が劣悪であるなどの問題を孕み続けた。
また、歩兵の連携を得られないなど、それに見合う戦果を残すことができなかったとされる。

後に改良を加えたマークII・III、IVなどが開発されて行くことになる。

              
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V号突撃砲戦車03 ドイツ V号突撃砲戦車

突撃砲は、第二次世界大戦中のドイツにおける主力装甲戦闘車両の一つである。

当初は歩兵戦闘を直接支援する装甲車両として設計され、III号戦車の車台を流用して製造された。

歩兵に随伴して進撃し、敵の防御拠点を直接照準射撃で撃破することを目的とする兵器であるため、所属は戦車部隊ではなく砲兵科に属する。

終戦までに派生形などを含め約10,500輌が製造されたが、これは第二次世界大戦でドイツが製造した装甲戦闘車両中、最大の生産数である。

              
イギリス Challenger1(Mk.3)

1991年の湾岸戦争で多国籍軍地上部隊の主力として出動し、強力な120mm砲でイラク軍のT−72戦車を圧倒したイギリス軍主力戦車デザートチャレンジャーである。

              
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M3LEE中戦車画像3  アメリカ M3LEE

グラント及びリーという2つの愛称はいずれもイギリス軍でのもの。
イギリス向けの仕様で生産されたものを南北戦争時の北軍将軍ユリシーズ・S・グラントの名をとってジェネラル・グラント、アメリカ陸軍向けの仕様のままでイギリス軍に配備されたものを南軍の将軍ロバート・E・リーの名をとってジェネラル・リーという。

M3中戦車は北アフリカの砂漠でイギリス軍の巡航戦車として活躍した。
2ポンド砲や6ポンド砲を装備したイギリス製巡航戦車は榴弾を発射できず、これは深刻な弱点だった。
強力な榴弾を発射でき、かつ対戦車戦闘でも有効な75 mm 砲を装備したM3中戦車は大変よろこばれた。
同時期に導入されていたクルセーダー巡航戦車よりも機械的信頼性が高かった。
しかし37 mm 砲と75mm 砲と二つの砲を備えるのは車長の指揮の上で煩わしかったし、車体に主砲を装備する配置は理想とはかけ離れていた。
砂漠の戦闘で高い車高は良好な視界を得ることができたが、敵に対しての標的にもなった。
75mm 砲の搭載位置の関係で車体を地形に隠すハルダウンを行うことも出来なかった。
あらゆる面で優れたシャーマンがイギリス軍に配備されるようになったが、1943年5月にドイツ軍が北アフリカから撤退するまで対戦車戦闘に用いられた。

            
  
 ソビエト重自走砲 JSUー152 

KV-ISのシャーシに固定戦闘室を設け、152mm 加農榴弾砲 ML-20を装備した自走砲である。
1943年3月より量産が開始され、ドイツのティーガー・パンターといった新型重戦車をクルスク戦において撃破したことにより「野獣ハンター」を意味する「ズヴェロボーイ」(≪Зверобой≫ズヴィラボーイ)と呼ばれるようになった。
但し、「ズヴェロボーイ」には「弟切草」という意味もあり、その後のソ連自走砲が草花の愛称で呼ばれたことを考慮すれば、SU-152の愛称もこちらの意味であった可能性もある。
その後、後継車輌の出揃う1950年代までソ連軍で運用された。


            
  
   
   ドイツ V号戦車 L型 

Panzerkampfwagen III Ausf L, Sd.Kfz.141/1
砲塔前面装甲を強化したもの。
J型後期からの操縦室前面と防盾の中空装甲が標準装備となる。
1942年6月から12月に653輌が生産された。
なお後に、5cm Kw.K.39 L/60搭載のJ型(L/42砲からの改修型含む)もL型に呼称を変更する通達が出されている。



            
  
   
  ドイツ SIMCA5 


イタリアの傑作小型車、初代フィアット500(トポリーノ)をフランスのシムカ社で生産したのがシムカ5(サンク)です。
油圧ブレーキや前輪独立懸架など当時としては先進的なメカニズムを採用。
流線形のボディの最前部にエンジンを搭載し、2人乗りながら良好な居住性を実現しました。
革命的な小型乗用車として大きな成功を収め、1936年から1940年までに約65、000台を量産。
ドイツ軍がフランスを占領した後も約6、000台がドイツ軍向けなどに生産され、幅広い戦線で将兵の足として使用されました。

          
  
 M48パットン画像1  M48パットン画像3
 M48パットン画像2 アメリカ M48 パットン

M47が就役した1952年に、アメリカ陸軍は早くもM47戦車や諸外国に供与していたM4中戦車の後継車両の開発を決定し、この戦車はM48の制式番号を与えられた。
M48戦車はM46パットンやM47と比較してより本格的かつ徹底的な設計見直しが行われ、新型の砲塔と改良されたサスペンションを搭載している。
車体に関しては運転席を車体の左右どちらにも偏らない中心軸線上に配置し、アメリカ軍の大戦後型戦車としてM41ウォーカー・ブルドッグに次いで補助運転手(車体機銃射手を兼ねる)を廃止して車体を運転手だけの一人乗りにした。

M48は1952年から1959年にかけて12,000輌が製造された。

          

 
 クォードガントラクター画像1 クォードガントラクター画像2 
 クォードガントラクター画像3  イギリス クォード ガントラクター

第2次大戦中、イギリスが大砲の牽引に多用したのは、太く、径の大きなタイヤを持ったホイールベースの短いシャーシに、シカクばったボディを乗せた奇妙なスタイルのクォードと呼ばれる一群のガントラクターでした。
このガントラクター群は、ガイ・クォード・アーント、モーリス・コマーシャルC8MkI及びMkIIクォード、カリアKT4、インディアン・クォード、そしてカナダで生産されたカナディアン・ミリタリー・パターン(CMT)・クォードの4つに大きく分けることができ、中でも、最も多数が生産され、多方面で活躍したのがCMTクォードだったのです。


         
   
  アメリカ M5A1 ヘッジホッグ

M5A1軽戦車はM5軽戦車の改良型で1942年9月に制式化されている。
M5軽戦車はM3軽戦車の改良型で,それまでのM3軽戦車がコンチネンタル空冷エンジンを搭載していたのに対して、キャデラック製42型シリーズ液冷ガソリンエンジン2基を搭載していた。
車体は新しく設計された溶接構造の車体で,エンジン2基を搭載するため、後部エンジンデッキは高くなった他、車体側面にサイドスカートが装着されていた。
前面装甲はM3軽戦車よりもが強化され、車体右前に機関銃が装備されている。
砲塔はM3軽戦車と同形式で、搭載した37mm砲には走行中の射撃を正確なものとにするために、ジャイロ・スタビライザーが装着されていた。
M5軽戦車は1942年2月に制式化され1942年12月まで
2,074両が生産されている。


          
 
   
  ドイツ Sd.Kfz250/9 

Sd.Kfz.250 とは、第二次世界大戦中のドイツ国防軍の軽装甲兵員輸送車の制式番号である。
1t ハーフトラック (Sd.Kfz.10) をベースにオートバイ兵大隊(偵察部隊)の装備を強化するために開発された。
3tハーフトラックがベースである中型装甲兵員輸送車Sd.Kfz.251に比べると、同じエンジンでより小型軽量なため機動性に勝る。
しかし前輪に動力が無いため東部戦線の泥沼化した道では、まともに機動できなくなり、最悪向きを変えバック状態で"前進"せねばならず、また重火器に対する防御力も不足しており、装甲部隊や突撃砲部隊の指揮用・偵察用としては撃破されやすく、前線での評判は良くない。
このため突撃砲部隊では指揮官用としてSd.Kfz.253やSd.Kfz.250/4に代わって(大戦初期には数が足りず使えなかった)突撃砲が用いられるようになり、偵察・連絡用としてはもっと小型で軽快なキューベルワーゲンが使われることが多くなった。

          
ベンツG4画像−3 ベンツG4画像−4
ベンツG4画像−1

ドイツ Benz G4

「メルセデス・ベンツ G4」は、1934年から1939年の間に57台が生産された6輪式の高級大型乗用車です
この「メルセデス・ベンツ G4」は、高級車のため注文により生産が行なわれており、1台ずつが微妙に仕様が異なっています

同車は、後部4輪が駆動、3.5ttもの車重を持つ車体を、5.4Lの100馬力(後期では110〜115馬力)エンジンにより最高時速67km/hを発揮する能力を発揮しました

「メルセデス・ベンツ G4」は、なんと言っても豪華な内装を持っているのが最大の特徴で、大型の車体がかもし出す威圧感と伴に、ヒトラーやナチス幹部のパレードにおいて、ナチス政権の権威・権力の象徴として多用され、国の内外にドイツの国力と技術を見せ付けました

また、一部の軍関係者にも使用されましたが、その豪華さと贅沢さ故に、政権中枢に近い、軍の首脳幹部クラスにしか使用が限られていたと言われています












                       
ベンツG4画像−2
 
無線指揮車1 無線指揮車2
無線指揮車3  ドイツ  Sdkfz223

第2次大戦中、ドイツの偵察部隊の中心となって活躍したのが、Sdkfz223です。
Sdkfz222 4輪装甲車の車体を利用し、20mm機関砲yを取り去って交信範囲50キロの中波通信装置を搭載し、大型のフレームアンテナを装備。
最高時速80km/h、4輪独立懸架、4輪駆動、ステアリングは前2輪または4輪に作動させられるというSdkfz222ゆずりの高度なシャーシによる優れた機能性を生かし、部隊の目となり、耳となって作戦の成功に大きく貢献したのです。(タミヤ解説書より)

           
キューベルワーゲン1 キューベルワーゲン2
キューベルワーゲン3
ドイツ Pkw.K1 キューベルワーゲン82型
 
第二次世界大戦中にドイツで生産された小型軍用車両である。
フェルディナント・ポルシェらにより設計された。
構造的には先行してポルシェが設計していたフォルクスワーゲン・タイプ1の軍用車ヴァージョンというべきものであり、不整地走破性を高めるため、軽量・低重心なタイプ1の特長を生かしながら、可能な限り最低地上高を高めるように設計された。
すべての座席がベンチシートではなくバケットシートであったため、当初は「バケットシート自動車 (Kubelsitzwagen = Kubel + Sitz + Wagen)」と呼ばれていた。
「バケットシート自動車 」の呼称からその後「シート」が略され、スチール製でプレス加工のリブを持つシンプルな外観から、「バケツ自動車 (キューベルワーゲン Kubelwagen = Kubel + Wagen)」と呼ばれるようになった。
          
  
Sdkfz232画像1  Sdkfz232画像2
Sdkfz232画像3  ドイツ  Sdkfz232

SdKfz232(8−Rad)は、1936〜43年9月までにおよそ150輌が生産(正確な数値は不明だが、偵察小隊の編成から推測)された8輪重装甲無線車である。
ドイツ語では Schwerer Panzerfunkwagen Sd.Kfz.232 (8-Rad) と表記される。
当初はSdKfz234と命名されていたが、暫定的な6輪重装甲車(Sd Kfz 232 (6-Rad))の制式番号を受け継ぐ形で変更された。
後にSdKfz234の番号は、新型の8輪重装甲車シリーズに与えられている。


          
ドイツ 37mm対戦車砲(45口径:Pak36 L45)


大戦初期の主力対戦車砲。
ラインメタル社製だが、ナチスが政権をとる以前、協定を結んでいたソ連国内で開発・試験され、ドイツより先の1931年にM1930(1K)としてソ連軍にも採用されている。
37mm級としては威力のある方だったがフランスやイギリス、ソ連の重装甲戦車相手に苦戦し、「ドアノッカー(叩くだけで貫通できない)」の蔑称がつけられた。
能力的にはソ連侵攻あたりが限界だったが、砲口に差し込んで発射する専用の成形炸薬弾が開発されたことにより、近距離対戦車兵器としてその後も使われた。
車載用としてSd Kfz250やSd Kfz 251の小隊長車に使われ、戦車砲型が初期のIII号戦車に搭載された。
 
 
 
ドイツ  Sdkfz222

1930年代の末期に開発されたドイツの偵察用の4輪駆動の装甲偵察車。
対空用の20mm機関砲
を地上用に改造したものを装備していた。
ポーランド戦、フランスへの侵攻、バルバロッサ作戦など戦争の初期の段階で多数使用された。
オフロードでの装甲性能に限界があったため、偵察車両としては、ハーフトラックタイプのSdkfz250や小型の戦車が使用されるようになった。
Sdkfz222の派生型として、大型のアンテナをつけたSdkfz223などもある。

         
八九式中戦車画像 八九式中戦車画像
八九式中戦車画像 
日本 八九式中戦車 乙型
 

1927年(昭和2年)に輸入したイギリスのビッカースC型中戦車を参考・模倣・改良して開発された。
開発は1928年(昭和3年)3月に始まり、同年4月に設計要目が決まり、同年8月に概略設計図面ができあがり、直ちに陸軍造兵廠大阪工廠に発注され、1929年(昭和4年)4月に試作車(試製八九式軽戦車1号機)が完成した。
試作車は以後、秘匿呼称のイ号とも呼ばれた。以後の量産は改修型も含め、民間企業である三菱航空機にて行われた。
1931年(昭和6年)の満州事変後、日本製鋼所と神戸製鋼所と汽車製造株式会社も生産に関わるようになった。

試作車の完成年を皇紀で表した皇紀2589年から、1929年(昭和4年)10月に八九式軽戦車として仮制式化された。

          
 
150mm 重歩兵砲 150mm 重歩兵砲
150mm 重歩兵砲 ドイツ 150mm 重歩兵砲 s.IG.33

第二次世界大戦の初頭から歩兵部隊に装備されたドイツの重歩兵砲である。
150mmという大口径で、38kgという巨大な砲弾を発射することができた。
対歩兵のほか、戦車、装甲車、敵陣地などへの攻撃など、あらゆる用途に使用されたという。
弾薬が砲弾と別に装填する方式のため、1分間に3から4発しか打てないという弱点があったようだが、この分割弾薬装填方式は、同種の兵器であるイギリスの25ポンド砲などとも同様で、特別時代遅れということではなかったと思われる。
最大の問題は重量が重いことで、牽引に手間どったという。
後年、1号戦車、2号戦車、3号戦車、38t戦車の車体を使った各種自走砲(バイソン2、グリーレH型など)が開発された。
          
Jeepウィルス1

アメリカ JeepウィルスMB

ジープ
Jeep)とはクライスラー社の四輪駆動車のブランドである。

第二次世界大戦中の1940年にアメリカ陸軍の要請により開発着手され、翌1941年から実戦投入開始された小型四輪駆動車が、その鼻祖である。第二次大戦において連合国軍の軍用車両として広く運用され、高い耐久性と、悪路や急勾配における優れた走行性能とで、偵察や輸送などに汎用性を発揮、軍事戦略上でも多大な成果を挙げた。

その高性能は小型四輪駆動車の有用性を世界各国で広く認知させ、第二次大戦後に軍用・民生用を問わず同種の四輪駆動車が世界的に普及する端緒となった。

ジープの名称は自然発生的なものであったが、第二次大戦後、製造メーカーのウィリス・オーバーランド社によって商標登録された。

 
Jeepウィルス2
 
水陸両用Jeep1 水陸両用Jeep2
水陸両用Jeep3 アメリカ 水陸両用車 フォード GPAジープ

第二次大戦中、合計約13000輛が生産され、アメリカ陸軍や海兵隊、そしてソビエト軍でも使用された水陸両用車。
37mm対空砲1 ドイツ 3.7cm対空機関砲37型

 第二次大戦中のドイツ軍を代表する対空火器の一つが3.7cm対空機関砲37型(Flak37)です。6発クリップ弾倉を使用して最大発射速度は毎分160発、通常時80発という能力を備え、連合軍の地上攻撃機に対して威力を発揮。空軍高射砲部隊に配備されたFlak37は幅広い戦線で対空防御に活用されたのはもちろん、大戦末期には先込め式の柄付徹甲榴弾も用意され、対戦車戦などの地上戦でも大きな働きを見せたのです。また8トンハーフトラックなどに搭載された対空自走砲も開発されました。

         
37mm対空砲2  37mm対空砲3
ラウンド・ローバー1 イギリス 野戦救急車ローバー7

 戦場において傷病兵を速やかに安全な後方に輸送することは世界の軍隊にとって重要な問題です。すでに第一次世界大戦からこの役割に自動車が使われていました。第二次世界大戦でも各国さまざまな車輌を生み出しましたが、野戦救急車にはすぐれた路外走行性能が要求されたのです。その戦訓をもとに戦後イギリスが装備したのがランドローバーです。ローバー7は2286ccエンジンを搭載したランドローバーシリーズIIA、3/4トン車をベースに1961年から62年にかけて開発されました。109インチのホイールベースに担架を収納するための大型のボディ後半部分を組み合わせた独特なスタイルが特徴です。担架は通常2本、緊急時には4本が収納できました。もちろん、駆動方式は4輪駆動を採用し、高い悪路走破性を実現しています。
ラウンド・ローバー2 
 
ドイツ砂漠JEEP1  イギリス S.A.S.ジープ

 第二次大戦中の北アフリカ戦線で、敵陣深く潜入し補給基地や飛行場などを奇襲、ロンメル将軍率いるドイツ・アフリカ軍団を苦しめたイギリス軍特殊部隊SAS。このSASが使用した砂漠仕様ジープです。ドイツ軍支配下の砂漠地帯を長距離移動するために様々な改造が施されました。予備燃料タンクやジェリカン、スペアタイヤ、脱出用サンドチャンネルなど独特な装備を満載した姿を作成。ブローニングM2重機関銃やビッカース連装機銃などの重武装もポイント。ドイツ軍に鹵獲された状況を作成しました。
ドイツ砂漠JEEP2 
ドイツ2号戦車  ドイツ II号戦車F/G型

第二次大戦初期のドイツ軍の勝利の原動力となったII号戦車です。20mm機関砲と機銃を装備し、偵察任務に活躍した軽快でコンパクトな車体で、砲塔は後部に雑具箱を取り付た状態がG型です。ヨーロッパ戦線に加えて北アフリカ戦線でも活躍したII号戦車です。
JS−3−1  ソビエト重戦車 JS3 スターリン3型

第二次大戦中、ドイツ軍戦車と激しい戦いを繰り広げたソビエト軍戦車。第二次大戦末期に開発され、その集大成とも言えるスターリン3型重戦車。戦後のソビエト戦車のみならず、各国の戦車開発に大きな影響を与えた革新のスタイル、独特の低いシルエットはもちろん、鋳造の砲塔や装甲板の荒々しい表面もなかなかリアルです。車体後部上面のエンジンルームグリルや車載機銃、鋳鉄製転輪を備えた足まわりなども精密な仕上がりです。
JS−3−2 
 
ウォーカーブルドッグ戦車  アメリカ軽戦車 M41 ウォーカーブルドック

1953年に制式採用、朝鮮戦争後のアメリカ軍主力軽戦車。
72mm砲を搭載した砲塔だけど、車体は結構大きいです。
 
 ウォーカーブルドッグ戦車2
   
シャーマン戦車  アメリカ M4A3シャーマン(75mm戦車砲搭載後期型)

第二次大戦中、連合軍を勝利に導いたM4シャーマン。
その数多いバリエーションの中でも最も多く生産されたタイプがM4A3です。
M4A3の75mm砲搭載型は溶接構造の車体にフォードV型8気筒ガソリンエンジンを装備、1942年6月に生産開始された前期型と1944年2月以降の後期型に分けられます。
後期型の特徴は防御力を向上した1枚型の前面装甲、車長用キューポラや装填手用ハッチ、そして砲弾の周囲を水で囲った湿式の弾薬格納箱の採用などで、ノルマンディー上陸以降のヨーロッパ戦線、そして太平洋戦線において大戦終了まで連合軍将兵とともに戦い抜いたのです。



              
 ドイツ駆逐戦車 ヤークトパンサー

本車は駆逐戦車であり砲塔を搭載しない。車体後部に機関室、車体中央部に避弾経始に優れる戦闘室、車体前部に変速機、操向変速機と88mm主砲を配する。
動力は後部機関室内のガソリンエンジンから床下のカルダンシャフトを介して車体前部の変速機へ通じ、ここで減速された後に操向変速機で左右の起動輪へと配分される。
搭乗員は5名。車体前部、後方からみて左側にドライバーが搭乗し、変速機を挟んで右側には前方機銃手兼無線手が搭乗した。
戦闘室中央部、後方からみて主砲の左側には砲手が搭乗し、砲を操作する。ほか、装填手と車長が搭乗した。
乗車用ハッチは3カ所に設けられた。指揮官の真上、装填手の左側、戦闘室後部である。
主砲は防楯をつけたうえで前面装甲板に装甲カラーを介して搭載された。
この装甲カラーは初期型と後期型が存在する。初期型の装甲カラーは戦闘室内部で装甲板とリベット接合しており、取り外すためには狭い車内で作業する必要があった。
後期型の装甲カラーは上下をそれぞれ4本のボルトで外部から接合したものに変えられた。
この変更によって、カラーを外した際の前面装甲板の開口部が広がり、変速機と操向変速機の交換作業が円滑になった。
主砲の砲身は戦闘室後部のハッチから抜き出し、防楯と装甲カラーを取り外すことで、開口部から変速機と操行変速機を取り出すことができた。

         


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