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P-40ウォーホーク戦闘機


P-40 (Curtiss P-40) は、第二次世界大戦期のアメリカ陸軍の戦闘機。
F型以降の愛称はウォーホーク (Warhawk:アメリカで「タカ派」を指す言葉) 。
アメリカ陸軍のみならず各連合軍に多数が供与され、イギリス空軍ではC型までをトマホーク (Tomahawk:インディアンの用いた斧)、D型からをキティホーク (Kittyhawk:ライト兄弟が初飛行に成功した場所)と称している。

性能的には平凡な機体であったが実用性が高く常に量産体制が整っていたこともあり、連合国が劣勢であった大戦初期に重要な使命を担い、各国軍で広く運用されドイツ軍や日本軍と戦った。

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零式水上偵察機
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発艦準備よ〜し!! 
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日本海軍は初期の空母、戦艦、巡洋艦、潜水艦に水上偵察機を搭載し、偵察の要として運用すべく準備を重ねていた。その仕上げとも言えるのが本機の配備であり、昭和16年から艦船や基地への配備が本格化した。
第二次世界大戦(太平洋戦争)開戦時には海軍の主力艦船には本機が搭載されており、艦隊や外地の基地の目として盛んに活動した。

大戦の序盤はそれなりの成果を収めていたが、昭和18年以降は水上機特有の速度不足・加速力不足が主因で、空母の搭載機や迎撃戦闘機が充実した敵方の艦隊や基地の情報を詳細に入手することは困難になってきた。
このため偵察任務は徐々に艦上機に移行していくこととなる。

生産は愛知航空機の他、渡辺鉄工所(後に九州飛行機になる)、広工廠でも行われた。
総生産数は1423機であるが、この内愛知で生産された機数は133機と全体の一割弱で、多くの機体は渡辺鉄工所製である。
終戦時には約200機が残存していたが、この内約4分の1が外地に残っていた機体であった。

唯一、海中から引き上げた同機の実物が、そのままの状態で鹿児島県南さつま市の加世田平和祈念館展示保存されている。


    

 



紫電改

第343海軍航空隊 第301飛行隊 徳島基地 昭和20年4月 菅野直大尉機

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紫電改」(しでんかい)は、大日本帝国海軍が第二次世界大戦中に開発した戦闘機である。
この名称は紫電の各型のうち、二一型以降の機体を呼ぶものである。

局地戦闘機紫電は、もともと水上戦闘機「強風」を元に開発された戦闘機であり、紫電二一型はこれを低翼に再設計した機体であった。
また「紫電改」の名称は、試作名称の仮称一号局地戦闘機が一般化したもので、本機の制式名称は紫電二一型である。
出自が迎撃戦に使われるべき局地戦闘機でありながらも、1943年以後、急速に進む零式艦上戦闘機の陳腐化、その正統後継機の烈風の開発遅延への対応策の一環で、戦争末期における日本海軍の事実上の制空戦闘機としての零戦の後継機として運用され、1944年以降の日本海軍においての唯一敵に正面から対抗可能な制空戦闘機として太平洋戦争末期の日本本土防空戦で活躍した。
    
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紫電改
第343海軍航空隊 第701飛行隊 鹿屋基地 昭和20年4月 鴛淵(おしぶち)孝大尉機  
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紫電改」(しでんかい)は、大日本帝国海軍が第二次世界大戦中に開発した戦闘機である。
この名称は紫電の各型のうち、二一型以降の機体を呼ぶものである。

局地戦闘機紫電は、もともと水上戦闘機「強風」を元に開発された戦闘機であり、紫電二一型はこれを低翼に再設計した機体であった。
また「紫電改」の名称は、試作名称の仮称一号局地戦闘機が一般化したもので、本機の制式名称は紫電二一型である。
出自が迎撃戦に使われるべき局地戦闘機でありながらも、1943年以後、急速に進む零式艦上戦闘機の陳腐化、その正統後継機の烈風の開発遅延への対応策の一環で、戦争末期における日本海軍の事実上の制空戦闘機としての零戦の後継機として運用され、1944年以降の日本海軍においての唯一敵に正面から対抗可能な制空戦闘機として太平洋戦争末期の日本本土防空戦で活躍した。
 

九六式 艦上戦闘機

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九六式艦上戦闘機(きゅうろくしきかんじょうせんとうき)は、日本海軍の艦上戦闘機である。
海軍初の全金属単葉戦闘機。
試作機は「九試単座戦闘機」。
連合軍のコードネームは「クロード(Claude)」。後継機は零式艦上戦闘機。

設計に際し高速と空戦時の運動性に重点が置かれ、空気力学的洗練と重量軽減が追求された。
堀越技師によれば、後の零式艦上戦闘機よりも快心の作であったと言う。

海軍制式機としては最初の全金属製低翼単葉機となった。
設計当時、戦闘機を中心に主流となっていた張り線を使用した薄翼を採らず、高速時の空気抵抗減少のために張り線の無い厚翼を採用した。主翼外形は曲線を繋いだ楕円翼とした。また、国産実用機として初めてフラップを採用している。

空気抵抗の削減のため、九六式陸上攻撃機と並び日本で始めて沈頭鋲を全面採用した。
金属板の締結に使っていた従来のリベット(鋲)では金属板表面に頭が突出し、高速で飛ぶ航空機における重大な空気抵抗の原因となっていた。
これに対して沈頭鋲は加締めの際に皿頭が金属板を凹ませながら締結するため機体表面が平滑に仕上げることが可能となった。
なお、九試単戦では慣れない鋲打ち作業で出来た表面の刺子様の窪みをパテで埋めて灰緑色塗料を厚めに塗った後に磨きを掛けている。

   
 

UH−1H IROQUOIS 陸上自衛隊仕様

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UH-1(英語: UH-1 Iroquois・イロコイ、愛称: Huey・ヒューイ)は、アメリカ合衆国のベル・エアクラフト社が開発したモデル 204/205/212ヘリコプターのアメリカ軍における制式名称。

1959年よりアメリカ陸軍で採用され、ベトナム戦争などで活躍した。
現在は後継機種のシコルスキーUH-60 ブラックホークに置き換えがすすんでいるが、日本の陸上自衛隊を始めとする多くの国々では現役である。

陸上自衛隊は2013年3月末時点でUH-1HとUH-1Jを141機保有している。

87式地雷散布装置を機外側面に取り付けることが出来る。

1972年(昭和47年)からは、機体を大型化しエンジンをT53-K-13Bに強化したUH-1Hの調達に切り替え、1991年(平成3年)までに133機を納入、民間型のB204も販売した。

UH-1Hの最終生産8機は暗視ゴーグル(JAVN-V6)対応コックピットとなり、末期生産の少数はテレビ映像伝送装置または赤外線監視装置が搭載された。

  

 


零式 水上観測機

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零式水上観測機(れいしきすいじょうかんそくき)とは、太平洋戦争中に運用された大日本帝国海軍(日本海軍)の水上観測機・偵察機。
略称は零観ゼロカン)、または「観測機」。日本海軍で採用された最後の複葉機である。


日本海軍は1935年(昭和10年)に短距離偵察と弾着観測を主任務とし、高い空戦能力を持つ複座水上偵察機の試作を十試水上観測機の名称で愛知航空機と三菱重工業に指示した。
これは、従来の水上偵察機に水上戦闘機的な性格を持たせ、敵の同種機の妨害を排除しつつ任務遂行できる機体を目指していた。

1936年(昭和11年)6月に試作1号機が完成し、愛知機との比較審査が行われたが、速度や運動性能は要求どおりだったものの、飛行中不意に自転する傾向があることが指摘された。
この解決のために三菱では、主翼の形状を大幅に改め、直線整形のものにした他、垂直尾翼も20種類以上の形状を試用し増面積するなどの必死の改修を行った。
また当初のエンジンは中島飛行機製「光」(単列・出力約700hp)であったが、この改修中に三菱製の新型エンジン「瑞星」(複列・出力約800hp)が完成したため2号機ではこれに換装したところ、速度面等が大幅に改善し、最高速度370km/h、5000mまでの上昇力9分と言う高性能を発揮した。

だが初期試験で落第した川西機(単葉)はともかく競争相手の愛知機も格闘戦に優れた優秀機で慎重な比較検討がなされたが、本機(三菱)の方が格闘性能が優秀であることと、愛知機の主翼外板が合板製であり温度・湿度に対する脆弱さがある点が問題となり、1940年(昭和15年)末、「零式水上観測機」として制式採用された。

 

零式艦上戦闘機  22型

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二二型は航続距離短縮という三二型の欠点を補うために急遽開発・生産された型で、1942年末から三菱のみで生産された。

エンジンや胴体部分の基本設計は三二型と同一だが、翼内燃料タンク容量の増量による重量増加に対応するため、主翼を二一型と同じ翼幅に戻し、翼端折り畳み機構も復活した結果、急降下制限速度は低下している。

中盤以降のソロモン諸島の戦いに投入されたが、その頃にはソロモン諸島に前進基地が設置されており、折角回復した航続距離も意義が薄れていた。

武装強化型の二二甲型を含めた生産機数は560機だった。

 


雷電 局地戦闘機

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雷電
らいでん)は、太平洋戦争末期に日本海軍が運用した局地戦闘機(乙戦)。
連合軍のコードネームはJack(ジャック)。

局地戦闘機(以下「局戦」と略)とは、航空母艦から運用される艦上戦闘機とは異なり、陸上基地からの運用を前提とした戦闘機を、また乙戦とは対爆撃機戦闘・迎撃戦闘(インタ−セプト)を行う戦闘機を指す日本海軍独自の用語である。
「雷電」という名称は愛称ではなく制式名称であり、乙戦の場合は「雷」または「電」の字を含むことと定められていた。

大型爆撃機迎撃を主任務の一つとする局戦に要求される性能は、敵爆撃機が飛行している高度に短時間で到達する上昇力と敵爆撃機に追い付く速力、そして一瞬のチャンスに敵爆撃機へ致命傷を与え得る火力の三つである。
これらを重視して開発されたのが雷電である。

 


零式艦上戦闘機  21型

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零戦の開発は1937年(昭和12年)9月に海軍から提示された「十二試艦上戦闘機計画要求書」に端を発する。

三菱では、前作である九六式艦上戦闘機に続いて堀越二郎技師を設計主務者として開発に取り組んだ。

十二試艦上戦闘機に対する海軍の要求性能は、堀越技師らが「ないものねだり」と評するほど高いものであり、ライバルの中島飛行機が途中で辞退した。

このような経緯から、零戦は三菱単独での開発となった。

1939年(昭和14年)4月に岐阜県の陸軍各務原飛行場で試作一号機が初飛行、翌1940年(昭和15年)7月に制式採用された。

 


SBD ドーントレス

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SBDは、ダグラス社が第二次世界大戦前に開発した、アメリカ海軍の艦上偵察爆撃機(艦上爆撃機)。
名前のSBは偵察爆撃機(Scout Bomber)を意味し、Dはダグラス社を意味する。

第二次世界大戦の殊勲機として、急降下爆撃機や偵察機として第二次世界大戦のほぼ全期間において運用された。

アメリカ海軍だけでなく陸軍や海兵隊でも運用された他、少数がイギリス海軍に供与されている。

第二次世界大戦の太平洋戦線においては、緒戦期のアメリカ海軍の苦しい時期、ミッドウェー海戦を契機とする戦局の逆転、そして勝利への階段を一気に駆け上り始めるまでを見届けた歴史の立会者であった。

 

中島 B6N 天山 艦上攻撃機

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天山(てんざん)は、日本海軍が九七式艦上攻撃機(以下、九七式艦攻)の後継機として開発・実戦配備した艦上攻撃機。

開発中は当時の命名基準に従い、計画開始年度(昭和)と機種名を並べて十四試艦上攻撃機と呼称されていた。

制式名称は「○式艦上攻撃機」となるはずだったが、制式採用直前の命名基準改定により「攻撃機は山に因む名称とする」と規定されたため、昭和18年8月の制式採用時に天山と命名された。
 


F4U コルセア
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F4Uコルセア (F4U Corsair) は、アメリカのチャンス・ヴォートが開発し、第二次世界大戦と朝鮮戦争でアメリカ海軍と海兵隊が使用したレシプロ単発単座戦闘機である。

1938年2月にアメリカ海軍が、戦闘機の開発要求を出し、チャンス・ヴォートは4月に1,200馬力級エンジンを搭載するV-166A案と2,000馬力級エンジン搭載のV-166B案を提出した。

当時、戦闘機用エンジンの主流は1,000馬力以下であったが、6月11日にV-166B案がXF4U-1として、海軍より試作発注がなされた。
当時としては大きさも怪物級であり、海軍で一番大きなプロペラをつけた、海軍一重たい艦上戦闘機となった。

 
 

F4 ファントム ドイツ空軍
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アメリカ海軍初の全天候型双発艦上戦闘機として開発され、大型の翼と高出力のジェットエンジンを双発で装備し大きな搭載量を特徴としている。
当初の機種番号は海軍ではF4H、アメリカ空軍ではF−110だったが1962年にアメリカ軍の軍用機の命名規則統一によりF−4となった。
ベトナム戦争での活躍から多くの西側諸国に採用され、各国の要求に応じて様々な派生型が数多く作られたことより冷戦期の代表的な機体となった。
数々の実戦戦績や各国へのセールスの成功も含めて傑作戦闘機と評価され、マクドネル社の発展の原動力としてその名を世界に広めた戦闘機とされる。

 


P-47 Thunderbolt
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アメリカのリパブリックにより製造されたレシプロ単発戦闘機である。
愛称はサンダーボルト (Thunderbolt) 。
第二次世界大戦後期に、ノースアメリカンP-51と並びアメリカ陸軍航空軍 (USAAF) の主力戦闘機として活躍した。
Jug(ジャグ)の愛称でも知られる。
戦闘機としても秀れていたが、特に戦闘爆撃機(ヤーボ)として大いに活躍した。
アメリカ以外の連合国の空軍でも使用された。
 


零式艦上戦闘機  21型
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零戦は太平洋戦争初期、2200kmに達する長大な航続距離・20mm機関砲2門の重武装・優れた格闘性能によって、米英の戦闘機に対し圧倒的な勝利を収め太平洋戦線の占領地域拡大に貢献し、米英パイロットからは「ゼロファイター」の名で恐れられた。
零戦の性能は太平洋戦争初期には米英戦闘機を凌駕した。
しかし大戦中期以降には、アメリカ陸海軍の対零戦戦法の確立、アメリカ陸海軍の新鋭機の大量投入、多数の熟練した零戦搭乗員の戦死によって、零戦は劣勢に追い込まれた。
零戦は大戦末期には特攻機としても使用された。

 


フォッケウルフ Fw190 F8
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フォッケウルフ Fw190は、第二次世界大戦時のドイツ空軍の戦闘機である。
この機体はメッサーシュミットBf109とともにドイツ航空戦力の主力を担った。
愛称は「ヴュルガー」(百舌)。
設計はクルト・タンクによる。
本機は強力な空冷エンジンを搭載し優れた飛行性能を見せたほか、機体が頑丈で発展性に余裕があり、戦闘爆撃機型や対爆撃機型、高速偵察機型など様々な派生型が生産され、さながら「軍馬」のごとくよく過酷な戦場に耐えて大戦を戦い抜いた。

 


Albatros D.I
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アルバトロス D.Iは、第一次世界大戦中のドイツの戦闘機である。
第一線で活動した期間は短かったが、本機に続くアルバトロス Dシリーズの戦闘機は、大戦の最後の2年間においてドイツおよびオーストリアの戦闘機隊の中核を形成した。

 


五式 戦闘機
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五式戦闘機(ごしきせんとうき)は第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍最後の制式戦闘機である。
キ番号(試作名称)はキ100。略称・呼称は五式戦
「隼」「鍾馗」などと言った他陸軍戦闘機に用いられた日本側愛称は存在しない。
また本機固有の連合軍の「Zeke」「Tony」などといったコードネームも存在しない。
さらには制式指示がなく「五式戦闘機」と言う名称自体が便宜上の物とする説もある。
開発・製造は川崎航空機が行った。設計主務者は土井武夫である。
液冷エンジンの供給不足に陥り、機体のみが余っていた三式戦闘機に急遽空冷エンジン、ハ-112IIを搭載し急遽戦力化したものであるしたものであるが、時間的猶予の無い急な設計であるにもかかわらず意外な高性能を発揮した。
五式戦闘機は大戦末期に登場し、また生産数も少ないために実戦での活躍は少ないが、末期の日本陸軍にとり相応の戦力となった。
空戦能力・信頼性とも当時の搭乗員には好評で、連合軍戦闘機と十分に渡り合えたと証言する元搭乗員もいる。

 


九七式戦闘機
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九七式戦闘機(きゅうななしきせんとうき)は、大日本帝国陸軍の戦闘機。
キ番号(試作名称)はキ27。略称・呼称は九七戦九七式戦など。
連合軍のコードネームはNate(ネイト)。
開発は中島飛行機、製造は中島のほかに立川飛行機と満州飛行機でも行われた。

陸軍最初の低翼単葉戦闘機として、1940年(昭和15年)前後の主力戦闘機として活躍した。
旋回能力に大変優れ、水平面での格闘戦では右に出る機体は無かったとされる。
だが同時期に登場したドイツやイギリスの戦闘機(メッサーシュミットBf109、スピットファイア)に比べ、活躍期間は短かった。

 


フォッケウルフ Fw190 D9
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D型は液冷12気筒エンジン Jumo 213Aー1(離昇出力1776馬力、高度5800mで1600馬力、MW50出力増加装置使用で2240馬力、高度9800mで1020馬力を装備。
それに伴い機首(50cm)および胴体後部(49cm)を延長し全長を8.95mから10.192mと改め、垂直尾翼も増積。
また機首右側面には過給器空気取り入れ口が突出している。液冷エンジンに不可欠なラジエーターはエンジンの前面に環状に配置(環状ラジエーター)され空気抵抗の増加を避け、さらに改造箇所を極力機首のみに限定するという効果をもたらした。

初飛行は1942年9月である。
やはり排気タービン過給器(ターボチャージャー)は装備しておらず、本格的な高々度戦闘機とは評価しがたいが、A型のような高空での急激な出力低下は見られなかった。

1944年6月末には2機のプロトタイプが完成、こうして1944年8月以降、Fw190D-9、愛称ドーラ(Dora、ドーラ9、長鼻ドーラ)、が量産されることとなった。
この量産の影では、C型と同様に与圧キャビンの無いD-1型、与圧キャビンを装備したD-2型がA-0型やC型からの転用も含め用意された。
だが、量産型が何故D-3型ではなくD-9型であるのかは不明である。
最終的にカタログスペックでは高度6,400mで698km/h、高度6,200mでMW50を使用して732km/h、上昇限度13,200mの性能を発揮している。
なお初期にランゲンハーゲン工場またはコトブスで生産された300機は従来型と同様のキャノピーを装備していたが、それ以降は視界を向上させたガーラント・ハウベを装備した。
また胴体下面にはETC501またはETC504爆弾ラックを装備し、爆装も可能である。


 


キ44 二式単座戦闘機「鍾馗(しょうき)
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二式単座戦闘機(にしきたんざせんとうき)は、第二次世界大戦での日本陸軍の重単座戦闘機。
キ番号(試作名称)はキ44
愛称は鍾馗(しょうき)。
戦争後期にB29の迎撃など本土防空で活躍した。
略称・呼称は二式単戦二単二式戦闘機二式戦ヨンヨンなど。
連合軍のコードネームはTojo(トージョー)。
開発・製造は中島飛行機。

 


零式艦上戦闘機  52型
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零戦は太平洋戦争初期、2200kmに達する長大な航続距離・20mm機関砲2門の重武装・優れた格闘性能によって、米英の戦闘機に対し圧倒的な勝利を収め太平洋戦線の占領地域拡大に貢献し、米英パイロットからは「ゼロファイター」の名で恐れられた。

零戦の性能は太平洋戦争初期には米英戦闘機を凌駕した。
しかし大戦中期以降には、アメリカ陸海軍の対零戦戦法の確立、アメリカ陸海軍の新鋭機の大量投入、多数の熟練した零戦搭乗員の戦死によって、零戦は劣勢に追い込まれた。
零戦は大戦末期には特攻機としても使用された。
 


Curtiss P-40 Warhawk
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カーチス P-40 (Curtiss P-40) は第二次世界大戦期のアメリカ陸軍の戦闘機である。
愛称はウォーホーク (Warhawk:アメリカで「タカ派」を指す言葉) 。
性能的には平凡な機体であったが、実用性が高く常に量産体制が整っていた事もあり、他の戦闘機の補完的存在として広く使われた。
アメリカ陸軍のみならず連合国各国にも多数が供与され、イギリス軍ではC型までをトマホーク (Tomahawk:インディアンの用いた斧)、D型からをキティホーク (Kittyhawk:ライト兄弟が初飛行に成功した場所) の名称で装備した。
 


Messerschmitt Bf 109 E-4
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メッサーシュミットBf 109 は、第二次世界大戦におけるナチスドイツ空軍の主力戦闘機。
世界で初めて一撃離脱戦法を前提に開発されたとされ、機体重量に比し小さく薄い主翼を持ち、モーターカノンや主脚のエンジンマウントなど、特徴のある設計となっている。
1934年、バイエルン航空機製造(Die Bayerische Flugzeugwerke/BFW)で開発が開始され、翌1935年、生産開始。
設計主任は、かつてBf 108を設計したロベルト・ルッサー技師。
後にバイエルン航空機製造はメッサーシュミット社となった。

Bf 109E (エーミール Emil)は、ダイムラー・ベンツ製エンジンDB 601Aを搭載した機体で、二次大戦初期の主力機となった。
後期型では出力向上させたDB 601Nも使用された。
 


九八式直接共同偵察機(ki36)
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九八式直接協同偵察機は、大日本帝国陸軍の偵察機。
キ番号(試作名称)はキ36
略称・呼称は九八式直協偵察機、九八式直協、九八直協、直協機など。
連合軍のコードネームはIda(アイーダ)。開発は立川飛行機、製造は立川と川崎航空機。

 


Grumman F6F Hellcat
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F6Fヘルキャットは、グラマン社が設計しアメリカ海軍が第二次世界大戦中盤以降に使用した艦上戦闘機である。アメリカ海軍の本命は1940年に初飛行したF4Uであったが、実際には開発時期が遅いこちらが艦上戦闘機の主力となった。

愛称のヘルキャットとは、直訳すると「地獄の猫」であるが、「性悪女」「意地の悪い女」という意味がある。

 
 


Albatros D.I
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アルバトロス D.Iは、第一次世界大戦中のドイツの戦闘機である。第一線で活動した期間は短かったが、本機に続くアルバトロス Dシリーズの戦闘機は、大戦の最後の2年間においてドイツおよびオーストリアの戦闘機隊の中核を形成した。

  
 


四式戦闘機 「疾風」
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四式戦闘機は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦闘機。キ番号(試作名称)はキ84。愛称は疾風(はやて)。
呼称・略称は四式戦四戦ハチヨン大東亜決戦機など。
連合軍のコードネームはFrank(フランク)。開発・製造は中島飛行機。

九七式戦闘機(キ27)、一式戦闘機「隼」(キ43)、二式単座戦闘機「鍾馗」(キ44)と続いた、小山悌技師を設計主務者とする中島製戦闘機の集大成とも言える機体で、全体的に保守的な設計ながらよくまとまっており、速度・武装・防弾・航続距離・運動性・操縦性・生産性のバランスが取れた傑作機であった。
624km/hという最高速度は大戦中に実用化された日本製戦闘機の中では最速であった。

1944年(昭和19年)中頃という太平洋戦争(大東亜戦争)後期登場の機体ながらも、日本軍戦闘機としては零戦、一式戦に次ぐ約3、500機に及んだ。
 

九七式艦上攻撃機
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九七式艦上攻撃機は日本海軍の艦上攻撃機。
競争試作された2機種が両方とも採用されたため、この名を持つ飛行機には全く設計の異なる中島製(B5N)と三菱製(B5M)の2種類が存在するが、通常は中島製(B5N)を指す。

日本海軍としては、初の全金属製の低翼単葉機であり、一号型は国産単発機初の引込脚を採用。
それまでの九六式艦上攻撃機に比べ、最高速度は約100km/hも向上した。乗員は3名。
「九七式艦攻」または、「九七艦攻」と省略して表記されることがある。

アメリカ側のコードネームは中島製の一号/三号がKate(ケイト)、三菱製の二号がMabel(メイベル)。

  
 


P-38 Lightning
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P-38 ライトニングは、ロッキード社が開発し、1939年にアメリカ陸軍に正式採用された戦闘機。

愛称であるライトニング(Lightning)は稲妻。
日本側では「メザシ」や、戦争初期、低高度性能が低く格闘戦に持ち込みやすかった頃に「容易に撃墜できる=ペロリと食えるP-38(=Pろ8)」から「ペロハチ」と呼んでいた。

しかし、速度を生かした一撃離脱戦法に切り替えてからはキルレシオが逆転、速度で圧倒的に劣る日本機を寄せ付けない強さを発揮し、「双胴の悪魔」と称されるようになった。

 


Supermarine Spitfire
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スーパーマリン スピットファイアは、イギリスのスーパーマリン製単発レシプロ単座戦闘機である。
第二次世界大戦においてイギリス空軍を始めとする連合軍で使用された。
バトル・オブ・ブリテンの際、イギリスをドイツ空軍の手より救った救国戦闘機として有名である。

楕円形の特徴的な主翼を持ち、翼断面は高速を発揮するために薄かった。
主任設計技師であるR.J.ミッチェル(1937年死去)とジョセフ・スミスを始めとする彼の後継者たちによって設計されたスピットファイアは、パイロットたちからの支持は厚く、第二次世界大戦のさまざまな状況で活躍した。

基本設計が優秀であったことと、戦況に応じたエンジンの出力向上(しかも排気量はグリフォン・エンジンまで変化していない)によって長期間にわたり活躍し、23、000機あまりが生産され、1950年代まで使用された。

 
 

Messerschmitt Bf 109 G-6
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メッサーシュミットBf 109 は、第二次世界大戦におけるナチスドイツ空軍の主力戦闘機。
世界で初めて一撃離脱戦法を前提に開発されたとされ、機体重量に比し小さく薄い主翼を持ち、モーターカノンや主脚のエンジンマウントなど、特徴のある設計となっている。
1934年、バイエルン航空機製造(Die Bayerische Flugzeugwerke/BFW)で開発が開始され、翌1935年、生産開始。
設計主任は、かつてBf 108を設計したロベルト・ルッサー技師。
後にバイエルン航空機製造はメッサーシュミット社となった。
 

B−17 爆撃機
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Bー17は、1935年よりアメリカ合衆国のボーイング社が開発したの四発重戦略爆撃機。
第二次世界大戦では、初期の太平洋戦域や、中期までの北アフリカ・地中海・フランスでの偵察と戦術爆撃、そして後期1943年半ばからのドイツ本土への戦略爆撃に本格的に使用された。

特にドイツ本土爆撃でドイツの工業力を空から喪失させヒトラーを敗北に導いた。
高高度での優れた性能と強い防御能力はドイツ空軍を悩ませた。

開発は、当初沿岸防衛用として哨戒と敵艦の攻撃用に立案され、後(1934年)に「敵国の軍隊よりもさらに重要である、その国の工業組織を目標」にする「護衛なしでやってゆける」爆撃機をめざし行なわれた。

愛称はフライングフォートレス(Flying Fortress=空飛ぶ要塞)。
なお、沿岸防衛用の「空の要塞(敵艦隊を防ぐ為の空飛ぶ城)」として、予算獲得の為にこの愛称がつけられた。
強力な防御力からこの愛称を付けたのではない。

 
 

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