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戦艦「伊勢」
当初は扶桑型戦艦(扶桑、山城)の3番、4番艦として予定されていた。
しかし、予算の関係で予定していた3番艦の起工が遅れ、しかも扶桑型に欠陥が見つかったため再設計された。
扶桑型の問題点で解消できた部分は多いとはいえ、後述する問題点等も含めると、まだまだ日本独自の技術よりは、イギリス式から受け継いだ流用技術に依存するところが多く、当時の日本の建艦事情の問題点も窺える。
英国技術を日本流に昇華させ、日本独力の技術で建造された純正戦艦と呼ばれるようになるのは次の長門型戦艦まで待たなければならなかったとも言われている。
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戦艦「陸奥」
長門型戦艦の2番艦で、八八艦隊計画二番手として、1918年(大正7年)に横須賀海軍工廠にて起工され、1921年(大正10年)に完成した。
1番艦の長門と共に、日本の力の象徴として戦前の国民に長く愛された。戦前の学校の教科書に描かれたり、男子がイメージする軍艦といえば、当時の連合艦隊旗艦である長門や、陸奥であったといわれる。
第二次世界大戦中には僚艦長門らと共に温存されていたが、1943年の6月8日、原因不明の爆発事故を起こし柱島沖で沈没。
戦後に浮揚作業が行われ、1970年には、艦体の一部や菊の御紋章、主砲身や主砲塔などが回収され、日本各地で陸奥の装備が展示された。
大戦末期にアメリカ軍の攻撃で戦没した後、終戦後には浮揚され、解体処分された他の日本軍艦と異なり、艦体の一部が現在も沈没場所に残っている。
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戦艦「扶桑」
世界列強が超弩級戦艦の建艦競争を繰り広げている中、日本海軍最初の超弩級戦艦として1911年に呉海軍工廠で建造開始され、1915年に完成した。
日本海軍の「個艦優越主義」により、連装砲塔6基、12門の主砲を搭載する、当時の最重武装艦となり、出力40000馬力から出る速力も当時の戦艦としては比較的高速の22.5ノットとなり、完成当初は世界最大最武装最速の戦艦であった。
しかし設計の練り込みが足りなかった関係で、ボイラー室を第3・第4砲塔に挟まれる格好で配置した結果、後年の近代化改装時にボイラーの増設が困難となった。
また全長の5割に達する長大な被弾危険箇所(弾薬庫等)という防御上の弱点、第3・第4砲塔の不適切な主砲塔配置により一斉射撃時に爆風が艦全体を覆う等、多々問題を抱えていた。
準同型艦の伊勢型戦艦ではこの点は改善されているものの、当時の日本の技術力としては無理が多かった部分もあり、防御能力では当時の列強の戦艦類と比べると見劣りするとされている。 |
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戦艦「大和」
太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直後の1941年12月に就役し、やがて連合艦隊旗艦となった。
この任は司令部設備に改良が施された同型艦 「武蔵」が就役(1942年8月)するまで継続された。
1945年4月7日、天一号作戦において米軍機動部隊の延べ1,000機以上の航空機による猛攻撃を受け(魚雷14本、大型爆弾3発、小型爆弾多数)、坊ノ岬沖で撃沈された。
当時の日本の最高技術を結集し建造され、戦艦として史上最大の排水量に史上最大の46cm主砲3基9門を備え、防御面でも重要区画(バイタルパート)では対46cm砲防御を施した桁外れの戦艦であった。
建造期間の短縮、作業の高効率化を目指し採用されたブロック工法は大成功を納め、この大和型建造のための技術・効率的な生産管理は、戦後の日本工業の礎となり重要な意味をなした。
艦名「大和」は、旧国名の大和国に由来する。
日本の中心地として日本の代名詞ともなっている大和を冠されたことに、本艦にかかった期待の度合いが見て取れる(同様の名称として扶桑型戦艦がある)。
正式な呼称は“軍艦大和”。
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戦艦「比叡」
1911年(明治44年)11月4日、横須賀海軍工廠で起工。
1912年(大正元年)11日21日進水、この時大正天皇行幸による初の命名が行われる。
1914年(大正3年)8月4日竣工。
比叡は開戦時、霧島と共に第3戦隊第2小隊を編成、第一航空艦隊(いわゆる南雲機動部隊)の空母部隊護衛として真珠湾攻撃、セイロン沖海戦、ミッドウェー海戦に参加、その後も第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦と空母部隊の護衛を務めた。
1942年11月12日深夜、第三次ソロモン海戦において日米ともに戦闘準備をしないまま米巡洋艦部隊と遭遇し500〜1500mという艦隊決戦としては異常な至近距離で砲戦を行った、海戦の初期は駆逐艦の主砲と機銃が比叡の艦橋に集中したため指揮に問題が生じ主砲をもてあますが戦艦の防御力を生かし敵艦隊を壊滅に至らしめた。
しかし、装甲が非常に薄いバルジに重巡の20cm砲弾が命中し舵機室の損傷による浸水のため操舵不能となる。機関の出力調節でなんとか艦を安全水域まで退避させようと努力されたが、翌日B17爆撃機及び空母「エンタープライズ」の艦載機による攻撃で被害が拡大し、機関損傷(連絡の手違いに起因する虚報だったという説もある)に陥ったため、艦を救う事を断念した。
連合艦隊司令部は本艦によって敵の空襲を吸収できると判断し自沈をしないよう命じたが、艦長らは乗員を退避させた上で、随伴駆逐艦から魚雷を打ち込み、自沈した。
なお艦長は乗員らが強引に退避させた。
ちなみに本艦の沈没は、太平洋戦争中の日本海軍における戦艦喪失の第一号である。
大分県竹田市にある広瀬神社には第二次改装のとき取り外された比叡のマストがある。 |
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