航空母艦「瑞鶴」
瑞鶴は1938年(昭和13年)5月25日川崎重工業神戸造船所にて起工され、1939年(昭和14年)11月27日進水、1941年(昭和16年)9月25日に就役した。
姉妹艦の「翔鶴」とともに第五航空戦隊を編成した。 姉妹艦翔鶴と区別するために、甲板前部に「ス」と書かれていた。(ただし瑞鶴の最終状態の時には、この文字は消されていた。)
太平洋戦争中、真珠湾攻撃や珊瑚海海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦などで活躍したが1944年(昭和19年)10月25日エンガノ岬沖海戦で沈没した。
瑞鶴はマリアナ沖海戦まで一発も被弾しなかった幸運艦であった。
【エンガノ岬沖海戦】
1944年(昭和19年)5月、あ号作戦準備のためギマラスに移動。
6月19日、20日マリアナ沖海戦に参加。米機動部隊を攻撃するも搭載していた艦載機を多数失い、20日空襲により艦橋を小破した。なお、この海戦で姉妹艦翔鶴が潜水艦からの雷撃で撃沈されている。
10月、小沢治三郎中将が指揮する囮部隊の旗艦としてフィリピン北東へ進出。
25日、米第38任務部隊からの空襲により沈没した(エンガノ岬沖海戦)。
- 第一波の攻撃により、1本の魚雷が命中した。これにより機械室に浸水した。また送風装置の故障により機関部温度が急上昇し在室不能なり、この結果2軸運転となった。また舵取り装置も故障し、人力操舵となる。
- 第二波の攻撃までは約1時間の時間があり、その間も瑞鶴は囮の役目を果たすべく北上を継続した。なお戦闘中一時通信不能になったが、その後復旧し、アメリカ軍の誘致に成功したことが発信されるが、その通信は栗田艦隊には届くことは無かった。
- 第二波の攻撃では、速力低下を来たしたことが致命傷に繋がり、その後5~6本の魚雷を受けた。また爆弾も5~7発命中し、揮発油タンクなどに引火した。対空火器は爆撃によって破壊されたり、動力を絶たれたりして使用不能となった。辛うじて残った右舷の高角砲が最期まで射撃を継続していたが、砲身が過加熱して焼けるなどして迎撃継続が困難となり、最終的に傾斜が増し旋回不能になり沈黙した。総員退艦が発令された後、瑞鶴は左に傾斜しながら艦尾から沈没した。沈没時にはアメリカ軍の攻撃は終了しており、総員退艦時に撮影された飛行甲板での写真は有名である。
慰霊碑は奈良県橿原市の橿原公苑内にあり、復元されたマストが傍らに立っている。
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