Gontaの模型趣味 1/700巡洋艦モデル
   
   
上に行くほど、最近UPした画像です
重巡洋艦「古鷹」

日本海軍の古鷹型重巡洋艦1番艦。

艦名は江田島の海軍兵学校そばにある古鷹山による。 

列強の15cm砲搭載軽巡洋艦を凌駕する巡洋艦として、20cm砲6門を搭載し相応の防御力を有した8,000トン級巡洋艦として1923年度の計画で建造された

1942年10月12日のサボ島沖海戦で、艦隊旗艦であった「青葉」が敵艦隊のレーダー射撃を受け大破し、煙幕を張って避退。
「青葉」の後方を進んでいた「古鷹」が今度は敵の標的となり敵の砲弾が次々と命中。
この攻撃により魚雷が誘爆し、大火災を起こしてしまった。
しかし、なおも「古鷹」は砲撃を継続し、米巡洋艦「アトランタ」(USS Atlanta, CL-51) に損害を与えた。
その後、「古鷹」はしばらく海上に浮かんでいたが、午前0:28ついに沈没した。

「古鷹」型巡洋艦の設計計画当時は船体強度を維持するために船体中心線上に隔壁を設置することが多かった。
「古鷹」も船体軽量化と強度の確保の面から船体中央に隔壁が設置されていた

太平洋戦争開始直前の時期には砲力や大威力の魚雷の出現により、片舷にのみ浸水し大傾斜により復原できなくなる可能性が指摘されていたが改修されることなく戦争に突入した。
「古鷹」の沈没は一説にはこの片舷浸水による大傾斜が原因になったとされる。
生存者は513名。
  
重巡洋艦「加古」

古鷹型重巡洋艦の2番艦。
第一次ソロモン海戦で活躍したが、その帰路、連合軍潜水艦の雷撃により沈没した。

艦名は兵庫県を流れる加古川に因んで命名された。

当初は川内型軽巡洋艦(二等巡洋艦)の一隻として建造される予定であったが、軍縮の結果1922年(大正11年)3月17日に建造が中止となる。

その後、艦型・艦種類は一等巡洋艦に変更となったが、二等巡洋艦時の艦名が流用されたため、重巡洋艦に山の名を付ける日本海軍の慣例に反し例外的に川の名が付けられた。。

1942年(昭和17年)8月8〜9日、第一次ソロモン海戦に参加し、アメリカ重巡洋艦「アストリア」 (USS Astoria, CA-34)、「ヴィンセンス 」(USS Vincennes, CA-44) へ打撃を与え、「クインシー」 (USS Quincy, CA-39) およびオーストラリア重巡洋艦「キャンベラ 」(HMAS Canberra) の撃沈に貢献した。

この戦闘で「加古」は損害を被ることはなかったが、帰還中の8月10日に米潜水艦「S-44」に捕捉される。
07;06に「S-44」は640mの距離から4本の魚雷を発射、そのうち3本が命中した。
1発目は一番砲塔右舷に命中、2発目及び3発目は弾薬庫及び缶室の近くに命中し、35分後に転覆、沈没した。
乗員34名が死亡したが、艦長の高橋雄次大佐を始めとする残りの乗員は救助された。
同年9月15日に除籍。
  
重巡洋艦「妙高」 重巡洋艦「妙高」
重巡洋艦「妙高」
重巡洋艦「妙高」


1929年(昭和4年)7月31日横須賀海軍工廠で竣工する。
1937年の夏には日中戦争の上海上陸作戦に従事。
妙高型4隻で第5戦隊を編成し太平洋戦争開戦直後はダバオ、ホロ攻略作戦に従事した。

1942年1月4日、B17爆撃機による爆撃を受け35名の戦死者を出す。
大型軍艦としては太平洋戦争で最初に損害を受けた艦となった。佐世保港に回航して修理を行った。

1942年2月のスラバヤ沖海戦では僚艦と共に英重巡洋艦エクセター 等3隻を撃沈するという戦果を挙げた。
その後珊瑚海海戦、ミッドウェイ海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、ブーゲンビル島沖海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦等に参加する。

1944年12月13日、レイテ沖海戦での損傷修理に日本本国に戻るため、駆逐艦潮を護衛にサイゴン沖を航行中のところを米潜水艦バーゴールの夜間雷撃を受け艦尾を切断した。
妙高は主砲と高角砲で二二号電探を使用したレーダー射撃を実施しバーゴールに命中弾を与え大破させたが、信管が作動せず沈没させることは出来なかった。

シンガポールに曳航されそこで終戦を迎える。

その後イギリス軍によって接収された本艦は1946年7月8日にマラッカ海峡にて海没処分された。


下の写真は、既存の艦橋窓を一旦削り落とし、エッチングパーツの艦橋窓を嵌め込みました。
ちょっとしたところをディティールアップすることにより、イメージが変わります。
 
重巡洋艦「妙高」
重巡洋艦「妙高」 重巡洋艦「妙高」
重巡洋艦「妙高」 重巡洋艦「妙高」
  
重巡洋艦「鈴谷」  重巡洋艦「鈴谷」
重巡洋艦「鈴谷」 重巡洋艦 「鈴谷」

第四艦隊事件により最上型の船体強度に問題があることが判明したため、船体線図が改正され「最上」「三隈」とは船体形状に違いがあり、鈴谷型(「鈴谷」・「熊野」)と分類されることもある。また、ボイラーが「最上」「三隈」は重油専焼罐大型8基小型2基の計10基から、重油専焼罐大型8基に変更されている。そのため、第3砲塔と艦橋構造物との間の大型吸気トランクがなく、一番煙突の太さもボイラー減少の分だけ径が細くなっている。
1933年12月11日、横須賀海軍工廠にて起工。
1934年11月20日に進水し、1937年10月31日竣工した。
1941年の太平洋戦争勃発後は、マレー上陸作戦、バタビア沖海戦、第二次ソロモン海戦、マリアナ沖海戦等に参加。
ミッドウェー海戦に於いて第七戦隊旗艦熊野(司令官栗田健男少将)は「我に続け」の信号旗を掲げ衝突損傷した最上と三隈をその場に残し西進離脱した。しかし艦長木村昌福大佐は「我機関故障」と熊野に伝達し意図的に速度を落としその後独断で三隈生存者の救助に向かった。
生存者の救助後、鈴谷より魚雷を発射し三隈を自沈処分とした。
1944年 にはレイテ沖海戦に参加。10月25日10時50分、サマール島沖海戦で米軍機約30機の攻撃を受け、至近弾により一番発射管の魚雷が誘爆、これが致命傷となって各部に誘爆を引き起こし、12時30分沈没した。
戦死90名、行方不明564名、戦傷69名(鈴谷戦闘詳報による)。
12月20日除籍。
重巡洋艦「鈴谷」
  
重巡洋艦「羽黒」  重巡洋艦「羽黒」
重巡洋艦「羽黒」 重巡洋艦 「羽黒」 

三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)にて建造。
就役後は第2艦隊第4戦隊に所属。
1934年(昭和9年)5月に近代化改修に着手。
1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦時には第2艦隊第5戦隊に所属し、フィリピン攻略に参加する。
1942年(昭和17年)に珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦など数々の海戦に参加。
1944年(昭和19年)10月25日 サマール沖海戦で、アメリカ護衛空母の艦載機によって2番砲塔に爆弾を受け損傷した。その後修理されないまま、妙高や高雄と共にシンガポールに係留されていた。羽黒の損傷は妙高や高雄と比較して経度であったので、足柄 (重巡洋艦)などと同様に輸送作戦に従事することとなった。
1945年(昭和20年)5月12日、陸軍の要請により、アマダン諸島への輸送任務に駆逐艦「神風」とともに出撃。(ペナン沖海戦)
1945年(昭和20年)5月16日、イギリス海軍機の攻撃を受け損傷する。翌17日マラッカ海峡にてイギリス駆逐艦「ソマーズ」「ヴィーナス」「ヴィラーゴ」「ヴェルラム」「ヴィジラアント」と交戦する。(ペナン沖海戦)。
イギリス駆逐艦に主砲の命中弾を与えて先制するが英駆逐艦の雷撃を受けた。
羽黒は損傷のために速度を制限せざる得ない状況であり、戦場からの離脱を断念。随伴する神風を離脱させた。羽黒には最終的に3本の魚雷が命中し、02:32時に船首部分から沈没した。
重巡洋艦「羽黒」
  
重雷装艦「北上」  重雷装艦「北上」
重雷装艦「北上」 重雷装艦「北上」

太平洋戦争開戦前の日本海軍では、もしアメリカと戦争になった場合、太平洋を渡って来るアメリカ艦隊を迎え撃つ為、まず潜水艦と航空機で敵戦力を漸減し、その後日本近海において主力である戦艦部隊による艦隊決戦で決着を付けるというシナリオを立てていた。このシナリオ、つまり戦闘を優位に進める為、1937年(昭和12年)に考え出されたのが、この重雷装艦である。
この艦への改装に抜擢されたのが、球磨型軽巡洋艦である北上大井木曾(結局、改装はされず)の3隻であった。
この3隻が抜擢された理由として、軽巡洋艦としての利便性、立案当時でも、かなり長い艦歴であった当艦の有効な活用方法、早急な改装工事行う為などが挙げられる。
そして1937年(昭和12年)、北上と大井の2隻の改装工事が始まり、主砲や副砲の撤去の他、艦橋の拡大等々、船体自体も大規模な工事が施され、片側だけでも61cmの4連装魚雷発射管が5基20門、両方合わせて10基40門も搭載された。
これだけの魚雷攻撃が出来る艦は未だかつて無かったが、直後の太平洋では、戦艦や艦隊決戦ではなく、空母及び航空機が新たに戦争の主役となり、重雷装艦の活躍する場はもはや無く、存在意義は無くなったも同然であった。
その後2隻は、高速輸送艦としての任務に従事、1944年(昭和19年)には大井が戦没するも、北上は本土決戦を前提とした水上艦部隊である海上挺進部隊に編入され、部隊の中で最大であった北上は、通常1〜2基搭載する人間魚雷回天を、8基も搭載する回天搭載母艦となった。
終戦直前の呉軍港空襲で大破し、航行不能となるも、戦後は工作艦として復員支援を行い、後に解体された。 
重雷装艦「北上」
  
軽巡洋艦「那珂」 軽巡洋艦「那珂」
軽巡洋艦「那珂」
軽巡洋艦「那珂」

那珂(なか)は、川内型軽巡洋艦の3番艦。
1925年11月30日に就役し、その際に艦首形状をスプーン型からダブル・カーブド型に改めている。
1927年8月24日、島根県美保関沖で行われた夜間無灯火演習において巡洋艦「神通」と駆逐艦「蕨」が衝突、それを避けようとして駆逐艦「葦」の左舷後部に衝突し両艦ともに大破した(美保関事件)。
1937年の日華事変時においては第2艦隊に所属し作戦活動に従事した。
1941年には姉妹艦の「神通」と共に雷装の強化が行われた。太平洋戦争が始めると西村祥治少将率いる第4水雷戦隊の旗艦としてフィリピン上陸作戦を支援した。
1942年4月1日にクリスマス島沖において潜水艦「シーウルフ」 (USS Seawolf, SS-197) の雷撃を受け航行不能となり、「名取」によってシンガポールに牽引される。
その後舞鶴工廠にて修理、近代化改装を行い1943年4月に戦線復帰する。
1944年2月17日、トラック島西方で航空母艦「バンカー・ヒル」 (USS Bunker Hill, CV-17 および「カウペンス」 (USS Cowpens, CV-25) 艦載機部隊による攻撃を受け沈没した。
  
軽巡洋艦「鬼怒」 軽巡洋艦「鬼怒」
軽巡洋艦「鬼怒」
軽巡洋艦「鬼怒」

鬼怒は、大正年間に多数建造された5500トン型軽巡洋艦の長良型の一艦として、1922年(大正11年)11月に神戸川崎造船所で完成した。
1922年12月、第2艦隊第5戦隊に編入され、その後、第1艦隊第3戦隊、第2艦隊第2水雷戦隊に属した。
その後、支那事変(日中戦争)、マレー作戦、、ジャワ作戦、ニューギニア西部の作戦に従事した。
1944年10月23日、損傷を受けた「青葉」をマニラに曳航。
翌日、マニラ湾口で敵機の攻撃を受け、死傷者47名が出たが艦に損傷は無かった。
さらに25日、ミンダナオ海で敵機の攻撃を受けたが損害無く、カガヤンに入港しオルモックへ陸兵第一次増援輸送(多号作戦)に従事、その帰途、10月26日、パナイ島北東で米軍機の攻撃を受け、3発の命中弾と多数の至近弾による後部機関室への浸水により沈没した。

  
機雷敷設艦「津軽」 機雷敷設艦「津軽」
機雷敷設艦「津軽」
機雷敷設艦「津軽」

マル3計画艦。
「沖島」の準同型艦で九三式機雷600個を搭載した。
「沖島」との相違点は

  • 友鶴事件、第四艦隊事件による船体構造の見直し。
  • 中甲板の機雷投下軌条を4条に増やす。
  • 主砲を12.7cm高角砲に変更。

などである。
また航空基地補給も考慮に入れており、補給用に重油庫102t、軽質油庫125t、潤滑油庫、爆弾庫、機銃弾薬庫などを備えていた。
そのため大戦中は輸送任務にも活躍した。
緒戦はグアム、ラバウル攻略作戦などに参加。その後、ガダルカナル島輸送作戦3回などソロモン方面での輸送任務に活躍する。
1944年(昭和19年)に入るとシンガポール方面での輸送、機雷敷設に活躍したが同年6月29日に戦没した。

  
水上機母艦「千代田」 水上機母艦「千代田」
水上機母艦「千代田」
水上機母艦「千代田」

1938年(昭和13年)に水上機母艦として竣工した。
本艦の場合、水上機母艦としての役割に加えて、甲標的(特殊潜航艇)母艦としても使用できるように設計・建造され、艦内に合計12隻の甲標的を搭載可能であり、その場合でも12機の水上機を搭載可能になっていた。
また、走行中に艦尾両舷の滑り台より甲標的を発進できるという構造となっていた。ミッドウェー海戦で4隻の正規空母を失った日本海軍は、空母不足を解消するため軽空母に改装することを1942年(昭和17年)6月30日に決定する。
空母への改装は1943年(昭和18年)2月1日より開始された。空母改装に際しても、複雑な構造が災いして約10ヶ月の改装期間を要したが、同年12月1日に空母として改装が完了した。
空母改装後は第三航空戦隊に所属し船団護衛に従事、1944年(昭和19年)6月のマリアナ沖海戦にも参加した。
1944年(昭和19年)10月25日、レイテ沖海戦でアメリカ海軍機動部隊の艦載機による攻撃で航行不能になり、米第38任務部隊から分派され追撃してきたデュポーズ隊に捕捉されてしまい、米重巡洋艦「ウィチタ」(USS Wichita, CA-45) 以下の攻撃をうけ16時40分、左に転覆後沈没。
艦長 城英一郎大佐以下乗組員全員が艦と運命を共にした。
水上機母艦「千代田」 水上機母艦「千代田」