Gontaの模型趣味 | ちょっと寄り道 |
動かなくなったSLたち(6) | |
公園のD51(デゴイチ)は 退職したあと わずかばかりのレールをもらって もう 動かなくなった さだ まさし アルバム「夢の轍」 退職の日 より |
第2の人生を送っているSLたちにスポットをあててみました。 |
2011年 4月下旬 自宅から直線距離で片道6Km、実際は8Km以上はある道のりを、のんびり1時間ほど自転車漕いでやってきたのは、 我が居住区(杉並区)のとなりにある世田谷区の世田谷公園でした。 中央の写真は正門で、大変りっぱな名盤が目を惹きます。 その両脇の道を通り、奥へと足を運ぶと、「池」「噴水」「小高い丘」が一面に目の前に飛び込んできます。 子供の節句も近いので、「こいのぼり」も優優と風に乗って泳いでいました。 |
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ありました! 公園の片隅にひっそりとたたずむD51が!! ちゃんとプラットホームと駅舎までもらって、りっぱな様相でした。 切符を買って(冗談!)中に入り、 先ずはひと回り。 車体は近年、塗装をし直したようで、結構きれいな状態でした。 がっかりしたのは、運転席両脇の「D51272] のプレートが正規な場所になく、 少し前にズレて設置されているのと、プレート自体が偽物でした。 正面のプレートは本物です。 また、車体正面下側両脇の赤色灯は無残に壊れていて、穴が開いている状態も 気になります。 それと覗き込まなければ判らないのですが、車体とテンダー車とのジャンパー栓なども 抜け落ちていたりと、時代の経過にはかなわないところがしばし見受けられます。 機関車の後ろにはめずらしく「車掌車」が連結されていました。 今の時代では、車掌さんがいない電車が増えてきましたが、このころは、 貨物列車でさえ、車掌さんが一番後ろに乗っていました。 大変懐かしい車輌であるとともに、資料価値もかなりあると思います。 車掌車(ヨ5000系)についての資料も掲示していただければ より一層、保存価値が上がるかと思います。 区職員の方、なにとぞよろしくお願いいたします。 |
【 D51型 加熱デンター機関車 1−D−1 型 】 昭和13年から川崎車両 ・汽車製造 ・日本車両・国鉄浜松工場の各社で 計1115両が製造されました。 沢山おられるでしょう。 特に一次型95両までは煙突部から蒸気溜めまで半流線型のカバー(なめくじみたいな形)で覆われ、 独特のスタイルが印象的でした。 |
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【D51−272の公園設置について】 昭和47年10月に国鉄関係者のご理解により、世田谷公園に貸与されることになり、 昭和48年2月19日大宮工場で解体され数台のトレーラーでこの公園に運ばれてきたもです。 【D51−272について】 昭和14年8月8日に川崎車輌にて製造され、昭和14年8月13日から輸送任務に就いて、昭和47年9月30日に 山口県厚狭機関区で廃車になるまで、実に33年余りの間、主に九州・広島方面で貨物輸送専門に活躍してきました。 延べ走行距離は約2,458,000Kmで、地球を約61週、月までは約3往復したことになるそうです。 |
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毎回、公園に向かう途中に思うことがあります。 どんな状態でたたずんでいるのだろう。 錆びて荒れ果てた感じではなかろうか? それともきちんと手入れされて 補修されているだろうか?と・・・・・。 それによって機関車に対する 思い入れが変わってきます。 これからも末長く見守っていきたいものです。 これからの子供たちへの産業遺産として・・・。 また、鉄道ファンとして・・・。 |
【世田谷公園について】 以前は東京都の管理でしたが、昭和40年に世田谷区に移管され、施設の老朽化に伴い、公園の改修計画を決め、その構想を広く一般より募集し、区民に親しまれる公園の設計を行い、4年の歳月と3億6千万円の巨費を投じて、昭和49年に改修工事が完了しました。 「緑と太陽の文化都市世田谷区」にふさわしい、全体として調和のとれた風景園の感じで、あらゆる年齢層の運動と休養に利用できる総合的な公園だということです。 隣には、ナイター設備の野球場やテニスコートがあります。 ん〜〜杉並区民なのに世田谷区の公園アピールしてしまいました〜。。。。 |
ちょうどこの時期は「つつじ」や「さつき」が咲き誇っていてとても綺麗な風景となりました。 ミニSLも休日は走るようで、子供に限らず大人まで、かなりの人気があるようです。 ちなみに、中学生以上は70円、小学生は30円、小学生未満は無料です。 |
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【平和の祈り】 佐藤助雄 作 彫刻家佐藤助雄さんは、1919年に山形県に生れました。最初は能面制作を手がけていましたが、やがて本格的な彫刻の道に進みました。 佐藤氏は格調の高い具象彫刻家として有名で、1979年、60歳のときには日本芸術院賞を受賞されました。 佐藤氏は1987年に亡くなられましたが、その間一貫して少女像、若い女性像を中心に制作を行われました。少女の若々しい生命力、気品に満ちたフォルムに惹かれ、一生のテーマと決めたようです。 佐藤氏のアトリエが世田谷区の古刹豪徳寺の正門から右側に回ったところにありましたが、佐藤氏の死後、それが佐藤助雄記念館となって一般に公開されています。 |
今回の帰り道、とてもめずらしい建物を発見しました。 一辺の長さが、 手前が1m足らず。 奥が3m足らず。 長さが15m程度。 敷地面積は(上底+下底×高さ÷2)です。 とてもスリムな台形型のビルです。 どうやって建てたのだろう? どうやって住むのだろう? どうやって5階まで登るのだろう? 部屋(間取り)はどうなっているのだろう? バス・トイレはどうなっているのだろう? 畳はどうやって敷いているのだろう? ドアあけたらどんな感じなのだろう? 玄関は一応あるのだろう? 家賃はどのくらいだろう? ここに住む人はどんな人だろう? ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ |