Gontaの模型趣味 1/76スケール AFVモデル
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上に行くほど、最近UPした画像です
Matador & 5.5 Gun Matador & 5.5 Gun 
Matador & 5.5 Gun

イギリス Matador & 5.5 Gun

AECマタドールは、第二次世界大戦の間、英国のおよび連邦軍隊のためにAssociated Equipment社によって造られた大砲トラクターである。

 
キングタイガー戦車  キングタイガー戦車
キングタイガー戦車

ドイツ 重戦車 キングタイガー

ティーガーIIは、第二次世界大戦後期に実戦投入されたドイツ軍の重戦車の一つである。日本では「VI号戦車 ティーガーII」と訳されている。
制式番号は Sd.Kfz.182 である。
ノルマンディー戦線でこの戦車を見たアメリカ軍は「キング・タイガー」と呼び、イギリス軍は「ロイヤル・タイガー」と渾名した。
この渾名がドイツに逆輸入され、「ケーニッヒス・ティーガー」(ドイツ語での意味はベンガルトラ)と翻訳された。
なおソ連軍からはパンターの発展型と解釈され、前線では「新型豹戦車」と呼ばれた。

 
ヤークトタイガー戦車

ドイツ ヤークトタイガー

前線から「3,000mの距離で敵戦車を撃破可能な自走砲」を要望する声に応えて1943年初期に「12.8cm砲付き重突撃砲」の名で開発が始められた。
開発はティーガーII とほぼ並行に進められ、同年12月から量産に入る予定だったが、製造工場のニーベルンゲン・ヴェルケ(製作所)がIV号戦車の生産に追われていたため、量産を開始したのは翌年2月からとなった。
また生産開始に伴い、正式に「ヤークトティーガー」と命名された。1945年1月までに150輌を完成させる予定だったが不可能であるとされ、1945年に入ってからの生産計画で100輌生産後にティーガーIIに生産切り替え、5月以降は(装甲戦闘車輌の生産経験の無い)ユング社が生産引き継ぎ、と変更された。
工場側の記録では、1944年7月から1945年4月までの生産数は82輌に留まった。
48輌のみが完成したとする説もあり、また逆に部隊配備のための輸送記録では100輌を越えており、生産中に工場が爆撃されたこともあり実際の生産数は不明確である。

 
ヤークトタイガー戦車
III号戦車 ドイツ V号戦車

III号戦車
Panzerkampfwagen III)は、第二次世界大戦のドイツ軍の中戦車である。
大戦中盤(1941 - 1942年頃)までドイツ戦車隊の主力であった。制式番号は Sd.Kfz.141、Sd.Kfz.141/1、Sd.Kfz.141/2

ドイツ軍がI号戦車を造ったのち、きたるべき戦車戦術を考慮した主力戦車とすべく製造した中戦車である。支援戦車であるIV号戦車とともに運用する構想であった。

  • 主砲は対戦車能力を重視した3.7 cm 戦車砲を装備するが、将来5cm 砲の搭載も考慮したターレットリング径を確保。
  • 高速を発揮できるサスペンションとしてトーションバー式を装備。
  • 送受信可能な無線装置を全車に装備し、戦車間の連携を確保。
  • 砲塔を三人乗りとして砲手、装填手、戦車長をそれぞれ一人ずつに任せることで砲撃の精度と速度が向上し、戦車長も指揮と周辺警戒に専念できるようになったので、戦闘能力が大きく向上した。(ただし砲塔バスケットは前期のモデルでは採用されず、装填手は砲塔の回転に合わせて自分で動かなくてはならなかった。H型以降砲塔バスケットが採用され、代わりに車体の床板が廃止された。)
 
III号戦車
エレファント重駆逐戦車

ドイツ エレファント重駆逐戦車


第二次世界大戦で使われたドイツ軍の駆逐戦車。
制式番号:Sd.Kfz.184。
初期名称は8.8cm43式2型対戦車砲搭載突撃砲、またはティーガー(P)戦車駆逐車。
1943年2月6日の会議でフェルディナント(フェアディナント )と正式に命名され、1944年2月27日に総統の提案によりエレファント と改称された。
本車は、フェルディナント・ポルシェの名前にちなんで「フェルディナント」と名付けられ、1943年5月までに90輌が生産されて第653及び第654(重)戦車駆逐大隊に配備された。
両大隊は第216突撃戦車大隊とともに第656(重)戦車駆逐連隊を構成して1943年7月のツィタデレ作戦へ投入された。 

エレファント重駆逐戦車
タイガーT戦車  タイガーT戦車
タイガーT戦車


ドイツ VI号戦車 タイガーT戦車

VI号戦車と呼ばれる戦車にはI型とII型の2種類の戦車が存在し、それぞれティーガーI、ティーガーIIと呼ばれる。
当時の世界最強の戦車の一つとして評価されている。ティーゲル戦車と表記されることもある。英語読みでは、タイガー戦車と表記される。当時、ドイツ軍はソ連軍のT-34戦車に苦戦を強いられていた。
ドイツ軍はそのことを受けて元々対空用として製造された88mm高射砲を対戦車砲として戦車に搭載した。
当時のドイツ軍戦車の中では最も巨大だった本車は総統アドルフ・ヒトラーのお気に入りとなった。
以後、終戦までVI号戦車は使用され続けた。しかし、重量が当時の水準からすると非常に重かったため、変速機や足回りなどのトラブルが多く稼働率は低い水準にとどまり、また構造の弱い橋や道路の通行が困難だったり、複雑な設計が量産性を妨げた。
しかし、その大火力・重装甲はそれら欠点を補ってあまりあるもので、当時まともに対抗しうる他国製戦車はほとんど存在しなかった。 

タイガーT戦車  タイガーT戦車
ヤークトパンサー ドイツ駆逐戦車 ヤークトパンサー

あらゆる連合軍戦車をその射程外から撃破できる長砲身71口径の8.8cm砲を搭載。ベースとなったパンサー戦車譲りの機動力と傾斜装甲による優れた防御力を兼ね備え、第二次大戦で最良の駆逐戦車と称されたのがヤークトパンサーです。低いシルエットを活かした待ち伏せ攻撃で猛威をふるい、1944年6月のノルマンディー戦から大戦終結まで戦い抜いたのです。
 
ヤークトパンサー
パンサー戦車

ドイツ V号戦車パンター

本車はそれまでのドイツ戦車と違い傾斜した装甲を持っており、70口径 7.5 cm KwK 42という強力な(対戦車兵器として56口径8.8 cm KwK 36よりも近距離であれば高い装甲貫徹力を持つ)戦車砲を搭載していた。
また、ティーガー同様に幅の広い履帯、挟み込み式配置の大きな転輪で車重を分散し接地圧を下げる工夫が行われ、これは車台側面を守る補助装甲の役も与えられている。
転綸の上に露出している車台側面装甲は射撃試験の結果、ソ連軍の14.5mm対戦車ライフルに射貫される恐れがあったため、量産型ではこの部分を被う補助装甲であるシュルツェンが装着された。

 
パンサー戦車
90式戦車
日本 90式戦車

90式戦車は陸上自衛隊が74式戦車の後継として配備を進めている第三世代型主力戦車である。被弾径始を考慮し丸みを帯びた砲塔の74式戦車に対し、複合装甲を取り入れ弁当箱のように角張った砲塔が90式戦車の特徴だ。
これは近年広く普及するようになったAPFSDS弾 (Armour Piercing Fin-Stabilised Discarding Sabot:装弾筒付翼安定徹甲弾) には多少装甲を傾けたところでは貫通され大した効果を上げられないからである。
この複合装甲の材質は防衛機密のため詳細は分からないが、チタン合金と超硬特殊セラミックで構成されていると推測されている。その防御力は相当強固なもので、射撃実験では90式戦車自らが搭載する120mm滑腔砲で至近距離から発射されたAPFSDS弾の直撃にも耐えたという。
74式戦車 日本 74式戦車

74式戦車は61式戦車に代わる、陸上自衛隊の第2世代型国産主力戦車である。
車体は全溶接、砲塔は鋳造と61式戦車を踏襲しているが、形状はより低く滑らかな避弾径始となり、遙かに洗練された。
主砲は当時西側標準砲と言えた英国ビッカース車製105mmライフル砲「L7」のライセンス生産品(駐退復座器と装填機構は国産品に換装されている)を搭載、さらに主砲にスタビライザーが搭載され行進間射撃も可能となった。副武装は対地/対空用12.7mm機関銃を車長キューポラと装填主キューポラの間に、対歩兵用に74式車載7.62mm機関銃を主砲同軸にそれぞれ装備、さらに自衛用に発煙弾を砲塔の左右に搭載もしている。
射撃統制装置としてアナログ式弾道計算機が搭載され、車長用キューポラにルビーレーザーレンジファインダーを組み込んだJ3ペリスコープ、砲手用にJ1テレスコープを主砲同軸、J2ペリスコープをキューポラ前面に装備する。主砲発射時は通常車長が標的を選定、照準しその目標データを弾道計算機に入力、射撃する。
なお、砲手、車長共に砲の制御は可能であるが車長の制御が優先されるオーバーライド機能が搭載されている。
操縦手用キューポラには暗視装置が搭載され、さらに砲塔横に赤外線照射装置を搭載、夜戦能力も獲得した。

なぜかゴールド塗装にしたかった。
模型棚の中で唯一輝いていて、目をひきます。

 
74式戦車
Jeepウィリス & ハーレー Jeepウィリス & ハーレー 
Jeepウィリス & ハーレー アメリカ Jeepウィリス & ハーレー軍用二輪車 


500円玉より小さいバイク。
風防は透明セルロイドを加工して接着。
曲面にするのが一苦労・・・・・。
駆逐戦車ヘッツァー

ドイツ 38式軽駆逐戦車ヘッツァー

第二次世界大戦時のドイツの駆逐戦車。
ドイツ語では Jagdpanzer 38(t)と呼ばれる。
制式番号は Sd.Kfz.138/2 。
ヘッツァー(独:Hetzer, 狩りの勢子)というニックネームは本来、次世代軽駆逐戦車であるE-10計画用のものであったが、いつの間にか本車のものになっている。

 
駆逐戦車ヘッツァー
Sd.Kfz. 250/10 3.7cm対戦車砲搭載型 ドイツ Sd.Kfz. 250/10 3.7cm対戦車砲搭載型

Sd.Kfz.250/10は、Sd.Kfz.250装甲兵員輸送車に45口径3.7cm対戦車砲PaK35/36を搭載したもので、偵察部隊の小隊長用車両として作られた火力支援型である。
3.7cm対戦車砲PaK35/36は、牽引砲型から脚部を取り外した状態のもので、戦闘室の前方上部に取り付けられた。
砲前のガードも、直線状のものを組み合わせたものになっていた。

防盾は、初期においては牽引砲型と同じものが装備されたり、あるいは無かったりしていたが、後に、背の低い二重構造のものが標準装備されるようになった。

 
SdKfz222 ドイツ Sd.Kfz222

1930年代の末期に開発されたドイツの偵察用の4輪駆動の装甲偵察車。
対空用の20mm機関砲を地上用に改造したものを装備していた。
ポーランド戦、フランスへの侵攻、バルバロッサ作戦など戦争の初期の段階で多数使用された。
オフロードでの装甲性能に限界があったため、偵察車両としては、ハーフトラックタイプのSdkfz250や小型の戦車が使用されるようになった。
SdKfz222の派生型として、大型のアンテナをつけたSdKfz223などもある
 
ドイツ III号突撃砲 ドイツ III号突撃砲

第二次大戦初頭、敵防衛戦を突破できる強力な火力と装甲、機動力を備えた歩兵直協支援用の車輌として開発されたIII号突撃砲は、III号戦車のシャーシに前面50mm、側面30mmの装甲を持つ固定式戦闘室を設け、初期のIV号戦車と同じ短砲身24口径7.55cm砲を搭載。
初の本格量産型となったB型は、1940年6月から翌年5月までに250輌が生産され、1941年4月のバルカン侵攻作戦や同年6月に始まるバルバロッサ作戦に投入されました。
突撃砲大隊の主力車輌となったIII号突撃砲B型は、本来の歩兵支援任務はもちろん、強敵として現れたソ連軍T34やKV-1戦車に対しても、貫通力の高い成形炸薬弾で対抗し、ドイツ軍前線部隊の窮地を度々救ったのです
ドイツ III号突撃砲
ドイツ1号戦車2 ドイツT号戦車

1号戦車は名前のように第一次大戦後のドイツで初めて作られた戦車。
ここ機甲課では「戦車」に分類しているけども、実質的には軽戦車、かいつまんでいえば豆戦車と言える。
1926年にソビエトとラパロ条約を結び、極秘裏に戦車技術交換を行っていた。訓練などもソビエトにドイツ軍人を派遣してソビエト国内で行わせていた。
さすがにそのままではマズいので一旦軍籍を外してからソビエトに向かい、帰国の際に軍籍に戻していた。こうした蓄積が1933年のナチス党の政権取得および同年のベルサイユ条約破棄による軍拡をスムーズに行わせた一因だといえる
 この1号戦車はLas(農業用トラクター)という名称で密かに開発され、完成は1934年で、翌年には新しい型が誕生している。
前期型がA型、この新しい型がB型と名前がつけられた。
1号戦車の開発目的は訓練用だった。実際、それまでは自動車にハリボテ戦車キャンバスを貼りつけたやつで訓練していたから、その意味では大いにドイツ国防軍に力を与えたと言ってもいいだろう。
実際MG13型7.92mm機関銃2丁では実戦での威力はたかがしれているし、戦車に遭遇するとどうしようもなかった。しかし主力戦車の3号戦車や4号戦車の生産が遅れていたため、1939年のポーランド侵攻戦には実戦に使用されている。
それ以降は戦闘消耗や第一線から退いていって、前線での1号戦車の数は少なくなっていったものの、1941年6月のソビエト侵攻作戦(バルバロッサ作戦)時にも74両が第一線配備されていた。
ただ、やはり7.92mm機関銃2丁の武装や貧弱な装甲では数も質も優れていたソビエト戦車に対抗するのは無理で、同年中には第一線を退いていったようである。
 
ドイツ1号戦車1
M4A1シャーマン戦車2 アメリカ M4A1(初期型)シャーマン 鋳造車体前期型

M4A1はT6の流れを汲む鋳造車体を持つタイプで、M4と同じ航空機用星型エンジンを採用していました。
M4A1は1942年2月からシャーマンシリーズの中でも最初に量産が開始され、北アフリカのイギリス軍に直ちに供与されたのです。
これに引き続きアメリカ軍も1942年11月に北アフリカに上陸、M4A1はその主力として戦線に投入されました。
極初期のM4A1は車体前方にM1919A4機銃2丁を固定装備し、ドライバーズセクションの前方に直視式バイザーを装備していましたが、程なくしてこれを廃止し、サスペンションもバネを強化した新型に改められました。
この後も、主砲防盾は幅広のM34A1型に改められ車体には増加装甲が追加されるなど改良が加えられ大戦終結まで使用されたのです。
M44A1の75mm砲型は76mm砲型が生産される直前の1943年8月まで量産が続けられ、合計6281輌が生産されました。 
M4A1シャーマン戦車1
38(t)戦車2 ドイツ 38(t)戦車 Panzerkampfwagen 38(t)

 チェコ、CKD社が、チェコスロバキア陸軍向けに1937年に試作し、
翌年制式採用された軽戦車が、LT vz.38である。
これはそれまでのLT vz.35(ドイツ軍名称Pz.Kpfw.35(t))に代り
チェコスロバキア陸軍の主力戦車として活躍する予定だったが、
量産・部隊配備が始まる前に、チェコはドイツに併合されてしまい、
以後、この戦車はドイツ陸軍向けに、MBB社(CKD社が改名)により、
Pz.Kpfw.38(t)(カッコ内のtはチェコ製であることを示す)として量産
され、初期電撃戦の主役として活躍した。

 
38(t)戦車1
M7プリースト戦車1

アメリカ M7自走砲  愛称はプリースト(Priest)

砲兵の自走化を目指すアメリカ陸軍兵器局は、手始めにM3ハーフトラックに75mmカノン砲を搭載したМ3A1自走75mmカノン砲を製造した。
その後、運用結果などから半装軌式のハーフトラックよりも完全装軌式の車両に搭載した方が良いとの結論に至り、兵器局はM3中戦車の車体に105mm榴弾砲を搭載したT32自走砲の開発を開始した。

試作車は1942年始めに完成し、アバディーン性能試験場で試験を受けた。試験の結果、エンジン配置の関係による砲の仰角不足と対空火器の不備が指摘され、これを受けて車体右前方に12.7mmM2機関銃が装備された。
T32は同年4月にM7自走砲として正式採用され、1942年だけで2,028両が生産された。

 
M7プリースト戦車2
チャフィー軽戦車 アメリカ M24チャフィー軽戦車

第2次世界大戦において、アメリカ陸軍が開発し、実戦に投入した最後の軽戦車として知られるのが、このM24軽戦車である。
75mm戦車砲の装備と強力な装甲が特徴である。
生産開始前には発注数は5,000両に増加し、生産は、カディラク社に加えてマシ・ハラス社も参加して、1945年1月までに4,070両が完成した。
なお、生産中の1944年6月に、本車はM24軽戦車として制式化が行われている。
M24軽戦車は、供与された多くの国々で1970年代まで使用され、一部の国では1980年代まで現役に留まっていた。
日本の陸上自衛隊にも、1952年に375両のM24軽戦車が供与されており、M4中戦車より小柄で、日本人の乗員には比較的親しみ易く、操縦性や機動性も良好であったことから、1970年代末まで現役に留まっていた。
JS−2画像2 ソビエト JS−2 重戦車

赤軍はT-34中戦車やKV-1重戦車を大量生産しドイツ軍に対抗したが、ドイツ軍がティーガーIやパンター等を投入するようになると、それらの戦車を凌ぐ重戦車が求められるようになった。そこで、85mm砲を搭載するIS-1(旧名称・IS-85)が開発されたが、T-34の新型砲塔にも85mm砲が搭載されたため、新たに122mm加農砲を改造し搭載するように設計されたのがIS-2(旧名称・IS-122)である。 
JS−2画像1
KV−1画像2 ソビエト KV−1 TypeB

大型の溶接構造単砲塔には76.2mm戦車砲を搭載し装甲もかなり厚いものが採用されており、サスペンションこそトーションバー式に改められたものの、それ以外については旧態依然とした車体構造を持つ車体であった。
しかしエンジンや各種部品についてT−34戦車と共通化するなど大量生産向けの工夫がなされていた。対フィンランド戦(冬戦争)から実戦投入され、大戦中期ごろまで第一線で使用されている。

 強力な装甲防御力を持った当車にはドイツ軍の短砲身砲を搭載した中戦車や小口径対戦車砲では歯が立たずほぼ無敵を誇ったが(88mm高射砲や大口径野砲を使ってようやく対抗できた)、ドイツ軍が長砲身戦車砲を搭載した中戦車や強力な重戦車を投入するようになると一方的な攻勢は望めなくなってしまった。  
KV−1画像1